登入森の奥深く、こんもりとした木々に囲まれた小さな家がありました。そこには、やさしい目をした小さなうさぎの女の子「ももこ」が住んでいました。ももこは、ピンク色のリボンをつけていつも元気いっぱい。
「おはよう、おひさま!」 ももこは朝目覚めると、窓から差し込む朝日に向かって手を振りました。 「今日も一日よろしくね!」 ももこの小さなベッドのわきには、お花の絵が描かれた小さな時計がカチカチと優しい音を立てていました。 ある朝、ももこが庭の花に水をやっていると、キラキラと光る小さな紙切れが空から舞い降りてきました。 「あれ?なにかな?」 ももこは不思議そうに紙を拾い上げました。 それは金色と銀色のきらきらした文字で書かれた手紙でした。 「親愛なるももこへ。わたしたち、おひさまとおつきさまは、とても大切なおくりものをなくしてしまいました。それをさがす旅に出てくれるやさしい子を探しています。ももこ、お手伝いしてくれませんか?」 ももこは目を丸くして手紙を何度も読み返しました。 「わあ!おひさまとおつきさまからの手紙だ!」 ももこは急いでリュックサックに必要なものを詰め始めました。 「えーと、ハンカチに、おにぎり、水筒、それから...」 その時、窓からふわっと風が吹き込み、ももこの大好きな青いマフラーが踊るように浮かびました。 「そうだ!マフラーも持っていこう。夜はさむいかもしれないもんね」 ももこが言うと、マフラーはふわりと彼女の首に巻き付いて、優しく頬をなでました。 「あれ?マフラーさん、あなたも一緒に来てくれるの?」 マフラーはまるで返事をするように、もう一度ももこの頬をなでました。 準備を終えたももこは、大きな森の入り口に立ちました。高い木々が頭上で揺れ、葉っぱがサラサラと音を立てています。 「さあ、おひさまとおつきさまの贈り物を探す旅の始まりだよ」 ももこは自分に言い聞かせるように小さくつぶやきました。 ちょうどその時、一羽の小さな青い鳥がももこの前に舞い降りてきました。 「こんにちは、ももこ!わたしはあおい。おひさまとおつきさまに頼まれて、あなたを案内することになったんだよ」 「わあ、あおいさん!よろしくお願いします」ももこは嬉しそうに笑いました。 ももことあおいは森の中を進んでいきました。やがて、色とりどりの花が咲き誇る美しい花畑に出ました。 「わあ、きれい!」 ももこは花の香りを深く吸い込みました。 すると不思議なことに、花々が歌い始めたのです。 「ようこそ、ももこちゃん。ようこそ、あおいくん」 花たちは優しい声で歌いました。 「おひさまのおくりものは、わたしたちのところにはないけれど、ヒントをあげるね。それは、とても暖かくて、見えないけれど、みんなを幸せにするもの」 「見えないけれど、暖かくて、幸せになるもの?」 ももこは首をかしげました。 「ありがとう、お花さんたち」 あおいが言いました。 「そのヒント、大切にするね」 花畑を過ぎると、ももことあおいは小川にたどり着きました。でも、いつもなら楽しそうに流れているはずの小川が、今日はとても静かでした。 「どうしたの?」 ももこが小川に近づいて尋ねました。 小川はしゅんとした声で答えました。 「ぼくの歌が聞こえなくなってしまったんだ。だから、お魚たちも遊びに来なくなってしまったよ...」 ももこは考えました。そして、自分の持っていた小さな鈴を取り出して、小川の縁に置きました。 「この鈴の音を聞いてごらん。きっと新しい歌が思いつくよ」 鈴が風に揺られて、キラキラとした音色を奏でると、小川は少しずつ元気を取り戻し始めました。 「ありがとう、ももこちゃん!」 小川は嬉しそうに水音を立てました。 「おつきさまのおくりものについて教えてあげるね。それは、柔らかくて、見えないけれど、みんなに安心を与えるもの」 日が暮れ始め、空が赤く染まる頃、ももことあおいは森の小さな空き地で休むことにしました。 夜空には星がまたたき始めていましたが、一つだけ、とても悲しそうに光る小さな星がありました。 「あれ?あの星、どうしたのかな?」 ももこが空を見上げて言いました。 すると、その星は少しずつ下がってきて、ついにももこの前に降り立ちました。それは、小さな光の玉でした。 「ぼくは道に迷ってしまったんだ」 星は震える声で言いました。 「おうちに帰れなくなっちゃった...」 「だいじょうぶだよ」 ももこは優しく星を手のひらに乗せました。「みんなでいっしょに、あなたのおうちを探そう」 「でもどうやって星をおうちに帰すの?」 あおいが心配そうに尋ねました。 その時、ももこの首に巻いていた青いマフラーが風もないのにふわりと舞い上がり、星の周りを包み込みました。 「マフラーさん、何をしているの?」 マフラーは星を包み込んだまま、ゆっくりと上へ、上へと昇っていきました。やがて夜空の高いところで、マフラーはくるりと回転し、星を空へと解き放ちました。 小さな星は一瞬まぶしく輝き、そして他の星々の中へと帰っていきました。 「ありがとう、ももこちゃん!」 星の声が空から聞こえてきました。 「おひさまとおつきさまのおくりものは、君のすぐそばにあるよ」 次の日、ももこが旅を続けていると、突然空が暗くなり、大粒の雨が降り始めました。 「あ、雨だ!」 ももこは急いで大きな木の下に駆け込みました。 でも雨はどんどん激しくなり、木の葉っぱでは雨をしのぎきれなくなってきました。 その時、ももこの青いマフラーが再び動き出し、大きく広がってテントのようになりました。 「わあ、すごい!マフラーさん、ありがとう!」 マフラーの下で雨宿りをしていると、小さな声が聞こえてきました。 「た、たすけて...」 声の方を見ると、一匹の小さなりすが雨に濡れてふるえていました。 「こっちにおいで」 ももこは優しく手を差し伸べました。 りすはためらいながらも、ももこの手の上に飛び乗り、マフラーの下に入りました。 「あ、あったかい...」 りすは安心したように目を閉じました。 「お名前は?」 ももこが尋ねると、 「ぼく、くるみ」 りすは小さな声で答えました。 「おくりものを探しているの?」 ももこはびっくりして、 「どうして知ってるの?」 と聞きました。 くるみは微笑んで言いました。 「森中の動物たちが噂してるよ。勇敢なうさぎのももこが、おひさまとおつきさまのおくりものを探してるって」 雨が上がると、くるみはお礼にと自分の家に招待してくれました。 くるみの家は大きな木の穴の中にありました。中はとても居心地がよく、ドングリやクルミがたくさん並べられていました。 「どうぞ、食べて」 くるみはクルミを差し出しました。 「ありがとう」 ももこはクルミを一つ手に取りました。 食事の後、くるみは言いました。 「おひさまのおくりものについて、もっと教えてあげるよ。それは、誰かを想う時に胸の中でぽかぽかするもの」 「誰かを想う時に...」 ももこは考え込みました。 次の日、くるみも一緒に旅を続けることになりました。三人は森の奥へと進み、やがて霧に包まれた美しい湖に出ました。 「ここは霧の湖」 アオイが説明しました。 「この先に行くには、湖を渡らなければならないんだ」 湖の岸には、小さなボートが一艘つながれていました。 「このボートで渡ろう」 ももこは言いました。 しかし、ボートに乗り込もうとした時、霧の中から優しい声が響きました。 「待ちなさい、旅人たち。ここを通りたいのなら、まず質問に答えてください」 霧の中から現れたのは、銀色に輝く美しい精でした。 「わたしは霧の精。ここを通る者に質問をします」 精は静かな声で言いました。 「何でも答えるよ」 ももこは勇敢に言いました。 霧の精はほほえんで尋ねました。 「あなたにとって、一番大切なものは何ですか?」 ももこは少し考えてから答えました。 「わたしにとって一番大切なものは...友だちです。あおいさんやくるみさん、そしてマフラーさんみたいに、いつも一緒にいてくれる人たち」 霧の精は満足そうにうなずきました。 「良い答えです。湖を渡ることを許しましょう」 ボートは静かに霧の湖を進んでいきました。周りは白い霧で何も見えません。 「少し怖いね」 くるみがももこにくっついて言いました。 「だいじょうぶだよ」 ももこは優しく答えました。 「みんないっしょだもん」 そのとき、ボートが急に揺れ始めました。 「あ!なにかがボートにぶつかってる!」 あおいが叫びました。 水面から顔を出したのは、大きな魚でした。 「おまえたち、ここで何をしている?」 魚は厳しい声で尋ねました。 「わ、わたしたちはおひさまとおつきさまのおくりものを探しているんです」 ももこは恐る恐る答えました。 魚は少し驚いた様子で、ももこたちをじっと見つめました。 「なるほど、そういうことか」 魚は少し優しい声になりました。 「わたしはことばの魚。いつも湖の底でみんなの言葉を聞いているんだ」 「みんなの言葉?」 ももこは不思議そうに尋ねました。 「そう、うれしい言葉、悲しい言葉、怒った言葉...すべての言葉は最後にここに流れてくるんだ」 言葉の魚は続けました。 「おつきさまのおくりものについて、もう一つヒントをあげよう。それは、夜空のように静かで、でも心の中を明るく照らすもの」 霧の中をしばらく進むと、ようやく向こう岸が見えてきました。 「やった!もうすぐだ!」 くるみは喜びました。 岸に着くと、そこには虹色に輝く美しい花が一輪、咲いていました。 「わあ、きれい!」 ももこは思わず声を上げました。 「これは虹の花」 あおいが説明しました。 「とても珍しくて、見た人の願いを一つだけ叶えてくれるんだって」 「本当?」 ももこは驚きました。 「どんな願いごとをする?」 くるみが尋ねました。 ももこは真剣な顔で花を見つめました。 「おひさまとおつきさまのおくりものが見つかりますように...」 その瞬間、虹の花はキラキラと輝き、ももこの前に一枚の絵が浮かび上がりました。それは、笑顔の家族の絵でした。 「これは...」 ももこはその絵をじっと見つめました。 絵はすぐに消えてしまいましたが、ももこの心に温かいものが広がりました。 岸を離れると、一行の前に高い山が現れました。 「あの山の頂上に行けば、きっと贈り物が見つかるよ」 あおいが言いました。 山道は険しく、時には急な坂や大きな岩もありました。でも、ももこたちは助け合いながら、少しずつ頂上を目指しました。 「もう少し!」 ももこは友だちを励ましながら、前に進みました。 山を登るうちに、空はだんだん暗くなっていきました。 ようやく頂上に着いたとき、空はすっかり夜になっていました。そこには、石でできた小さな祭壇がありました。 「ここが最後の場所だね」 あおいは小さな声で言いました。 祭壇には、 「おひさまとおつきさまのおくりものは、すでにここにある」 と刻まれていました。 「すでにここにある?」 ももこは首をかしげました。 「でも何も見えないよ?」 その時、月明かりが祭壇を照らし、鏡のような表面が現れました。 ももこが鏡をのぞき込むと、そこに映ったのは自分自身の姿でした。でも、よく見ると、自分の胸のあたりが金色と銀色に光っています。 「これは...」 すると、鏡の中のももこが口を開きました。「見つけたね、おくりもの」 「え?どこに?」 本物のももこが尋ねました。 「ずっとあなたの中にあったんだよ」 鏡の中のももこが笑顔で答えました。 「おひさまのおくりものは『あたたかい心』、おつきさまのおくりものは『やさしさ』。あなたは旅の間中、それを使っていたんだよ」 ももこは驚いて、今までの旅を思い返しました。花畑、小川、迷子の星、雨の中のす...すべての出来事で、彼女は自分の心の温かさと優しさを使っていたのです。 「そうか...おくりものはずっとわたしの中にあったんだ」 ももこはようやく理解しました。 その瞬間、祭壇から金色と銀色の光が溢れ出し、空高く昇っていきました。 「見て!」 くるみが指さしました。 空では、おひさまとおつきさまが同時に姿を現し、ももこたちに微笑みかけていました。 「おめでとう、ももこ」 空からおひさまの声が響きました。 「あなたはおくりものの本当の意味を理解したね」 「これからも、その大切なおくりものを使って、みんなを幸せにしてね」 おつきさまの優しい声が続きました。 ももこは嬉しそうに空に向かって手を振りました。 「ありがとう、おひさま!ありがとう、おつきさま!」 帰り道は不思議と明るく、楽しいものでした。ももこはあおい、くるみ、そして青いマフラーと一緒に、歌を歌いながら森を抜けていきました。 「ほら、もうすぐおうちだよ」 あおいが言いました。 ももこの小さな家が見えてきた時、ももこは決心しました。これからも、自分の中にある温かい心と優しさというおくりものを、大切に使っていこう。 「ただいま」 ももこはおうちに向かって微笑みました。そして、新しい一日の始まりを心待ちにしながら、家路につきました。山のふもとに、小さな花の子たちが暮らす村がありました。春になると、村の子どもたちはみんな、胸のあたりに小さなつぼみを持っていて、あたたかい風が吹くころになると、そのつぼみがひとつ、またひとつとほころびていきます。ぱりん、と乾いた音を立てて皮が割れ、蜜のような甘い匂いがふわりと立ちのぼる、その瞬間が村ではいちばんの祝いごとでした。赤い花を咲かせる子は、勇気の心を持つ子。 青い花を咲かせる子は、静けさの心を持つ子。 黄色い花を咲かせる子は、希望の心を持つ子。 白い花を咲かせる子は、優しさの心を持つ子。花が咲くたびに、その色は風に乗って村の広場までふわりと届き、広場はいつも、子どもたちの心の色でいっぱいになるのでした。その年の春も、子どもたちのつぼみが次々とひらいていきました。けれど、ひとりだけ──。村でいちばん小さな女の子、フィウだけは、いつまでたってもつぼみが固いままでした。村のお年寄りたちは、フィウのつぼみを見るたび、少し困ったような、それでいて何かを思い出そうとするような顔をしました。まるで、遠い昔に聞いた歌の一節を、喉のところまで思い出しかけているような顔です。誰も、それが何の歌だったか、口には出しませんでした。フィウは、広場のすみっこにちょこんと座って、自分の胸のつぼみをじっと見つめていました。「どうして、わたしは咲けないんだろう」友だちのキィカ──黄色い花を咲かせた、村でいちばんのおしゃべりな女の子──が、風に揺れて笑い声のような音を立てるのを見ながら、フィウはそっとため息をつきます。風が吹いても、フィウのつぼみだけは、ぴくりとも動きませんでした。「そのうち咲くよ」 「急がなくていいんだよ」まわりの子どもたちは、いつも優しく声をかけてくれました。でも、優しくされればされるほど、フィウの心は少しずつ沈んでいくのでした。慰められるたびに、自分がみんなとは違う場所に立っているのだと、あらためて思い知らされる気がしたのです。だから、フィウは人の輪の中にいるのが苦手になって、誰かの後ろにそっと隠れる癖がつきました。土の匂いのする、日陰のひんやりした場所が、フィウにとっていちばん落ち着く場所でした。ある日のことです。あのおしゃべりなキィカが、めずらしく黙りこんで、うつむいていました。花びらの先が、少しちりちりと丸まっています。「どうしたの
森の匂いが変わる時刻だった。昼の青い匂いが、夜の黒い匂いに変わりはじめる、あの心細い夕暮れ時。少女は、もう三度目の同じ倒木の前に立っていた。木々はどこまでも似た顔をしていて、来た道も行く道もわからない。喉の奥に、涙になりかけた何かがつかえている。そのとき、頭上からずしん、ずしんと地面が揺れて、木々の隙間から大きな影が降りてきた。「おや。迷子だね」声は低く、けれどどこか間延びしていて、怖さより先に、少女の肩の力を抜かせた。見上げると、木々よりも高い巨人が、首をかしげてこちらを覗きこんでいる。困ったような、それでいて笑いをこらえているような、変な顔だった。巨人は少女を大きな手のひらに乗せると、鼻歌まじりに森の外れまで運んでくれた。地面に降ろされたとき、少女はお礼を言おうとして名乗った。「わたし、ミナ」「ミナか。いい名前だ」巨人は大きくうなずいた。ところが翌日、ミナがまた森を訪ねると、巨人は虫でも見るような顔でこう言った。「きみ、だれだったかな」ミナは面食らったが、次の瞬間には吹き出していた。この巨人は、覚えていることより忘れていることのほうが多い生きものらしい。「いいよ」とミナは言った。「わたしが覚えておく係になる」巨人の指先に、小さな手のひらをぺたりと押しあてて、ミナはそう約束した。翌週、ミナは木の実の皮で作った、ざらざらした表紙のノートを持ってきた。表紙には、炭で「巨人さんのおぼえがき」と書いた。中には、拾った木の実の数、巨人が教えてくれた星の名前、初めて二人で声をあげて笑った日のこと──そういう小さな出来事が、丸っこい字でひとつずつ増えていった。巨人は相変わらずよく忘れた。朝に助けた子リスのことを、夕方にはもう覚えていない。そのたびにミナはノートを開き、指でなぞりながら読んで聞かせた。「昨日はね、あなたが川で溺れかけた魚を助けたんだよ」 「一昨日はね、迷子の子リスに木の実を分けてあげたの。あなた、照れてたよ」巨人は膝を抱えて、じっと聞き入った。忘れてしまったはずの記憶なのに、聞いているうちに、胸の奥がじんわり熱くなる。それは初めて感じる種類のあたたかさだった。「変だな」と巨人はぽつりと言った。「忘れても、きみが持っていてくれるなら、なくなった気がしない」ミナはノートを抱きしめて、得意げに鼻を鳴らした。「そうでしょう。わたし、こ
深い入り江の、いちばん奥。 日の光もやわらかくしか届かないその場所に、ルナという人魚が暮らしていた。生まれつき体が弱いルナは、外海に出ることができない。潮の流れに少しあらがうだけで、息が切れてしまうのだ。かわりにルナは、岩に腰かけて歌を歌う癖があった。声を出すと、寂しさが少しだけ薄まる気がしたから。歌いながら、貝殻を拾って並べる。青い貝、白い貝、渦を巻いた貝。それがルナの、ささやかな地図だった。「海って、どんなところなんだろう」他の人魚たちは毎日のように外海へ出かけていき、遠い島の話や、光る珊瑚の森の話を土産に持ち帰ってきた。その話を聞くたび、ルナは笑顔をつくりながら、貝殻をひとつ、また海に返した。ある日、迷い込んだ一羽のカモメが、疲れた羽を休めるように岩に降り立った。ルナが歌うのをやめると、カモメは目を丸くして言った。「今の歌、すごくきれいだった。もっと聞かせてよ」驚いたのはルナのほうだった。誰かに歌をほめられたのは、初めてだったから。 それから二匹は、あっという間に友達になった。カモメは毎日入り江へやってきては、空から見た景色を語ってくれた。「朝の海はね、金色に光るんだよ」 「ずっと遠くには、雲より高い山があるんだ」 「海の上に道なんてないけど、風がちゃんと案内してくれる」そのひとことひとことが、ルナの心の中に、行ったことのない景色を描いていった。それからルナは、貝殻を並べながら、カモメの話をもとに想像の中で海を旅するようになった。金色の波を越え、雲より高い山を見上げ、風に導かれて進んでいく。歌うと、その景色はいっそう鮮やかになった。まるで、自分の声が波になって運んでくれるみたいに。けれどある晩、貝殻の地図を見つめながら、ルナはぽつりとつぶやいた。「わたし、本当の海を、一度も見たことがないんだね」となりで羽を休めていたカモメは、少し考えてから言った。「知らないことは、悪いことじゃないよ。……でも、いつか見せてあげたいな」ルナは何も言わず、ただ貝殻をひとつ、そっと握りしめた。数日後、カモメが息を切らして飛んできた。「聞いて! 沖の船乗りが話してたんだ。『夜になると、どこからか美しい歌が聞こえてくる』って。あれ、絶対あなたの歌だよ」ルナは信じられなかった。自分はまだ、入り江の外へ一度も出たことがないのに。でも同時に、指先
町外れの小さな家に、ミユという女の子が住んでいた。冬が来るたびに、ミユはおじいちゃんと一緒に庭で雪だるまを作った。丸めた雪を重ね、木の枝で腕をつけ、石ころで目と口を作る。仕上げに、おじいちゃんが自分の首から外した焦げ茶色のマフラーを、雪だるまの首に巻いてやる。それが二人だけの、毎年の約束だった。「いいか、ミユ。雪だるまはな、ただの雪じゃないんだぞ」 おじいちゃんはマフラーの結び目をきゅっと締めながら、いつもそう言って笑った。 「心を込めて作れば、ちゃんと応えてくれる」ミユが六歳になった年の冬、おじいちゃんは静かに眠るように旅立った。棺の中のおじいちゃんは、あのマフラーを巻いていなかった。ミユはそれをこっそり形見にもらい、簞笥の奥にしまい込んだ。その年の初雪の朝、ミユは一人で庭に出た。悲しくて、雪だるまなんて作る気になれなかった。けれど、気がつくと手は勝手に雪を丸めていた。下から大きく、真ん中を少し小さく、頭はいちばん小さく。そして家に駆け戻り、簞笥の奥からマフラーを取り出して、震える手で雪だるまの首に巻いた。結び目を締めた瞬間、雪だるまがふわりと動いた。「泣くな、ミユ」低くて、優しい、忘れられない声。「お、おじいちゃん……?」雪だるまは答える代わりに、ゆっくりと右腕の枝を持ち上げてみせた。まるで、大丈夫だよ、と言うように。それから毎年、初雪の日にミユは雪だるまを作り、簞笥からマフラーを出してきて首に巻いた。マフラーを巻いた瞬間だけ、雪だるまは動き、話した。十歳の冬、自転車の練習でひどく転んで、膝から血を出して庭に座り込んでいたミユに、雪だるまは言った。 「立て。今日立たなきゃ、明日も立てなくなる」 ミユは泣きながら自転車にまたがり、日が暮れるまで転び続けた。十四歳の冬、初めて好きになった人にふられて、口も利かずに雪の中に突っ立っていたミユに、雪だるまはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「今は、世界が終わったみたいだろう」 「うん」 「でもな。雪は、また降る」 それだけだった。それだけで、ミユは声を上げて泣いた。十八歳の冬には、雪だるまの言葉はずいぶん少なくなっていた。何を聞いても、 「お前ならもう、わかるだろう」 とだけ答えて、あとは雪の庭に静かに佇んでいる時間が増えた。マフラーの色も、少しずつ色褪せて見えた。二十歳の冬。大学の合
春が訪れたことを知らせるように、やわらかな風が町を吹き抜けていた。桜のつぼみはほころびはじめ、通学路にはうっすらと花びらのじゅうたんができている。そんなある日の午後、町はずれの小さな公園に、一人のおばあちゃんがちょこんと腰を下ろしていた。 ベンチは木製で、少し古びていた。座るたびにギシリと音を立てるけれど、おばあちゃんにとってはそれさえも懐かしい。毎週火曜日の午後、この公園に来てのんびり過ごすのが、長年の日課になっていた。手には、風呂敷に包まれたお弁当。中身は、自分で握ったおにぎりが二つ。それと、ぬか漬けを少し。今日の具は、昔から変わらない梅干しとツナマヨだ。 おばあちゃんの名は、さと子。七十をとうに越えているが、背筋はしゃんとしていて、白髪をきれいにまとめている。着ているのは淡いピンクのカーディガンと紺のスカート。春の日差しの中で、どこか柔らかな光をまとっているように見えた。そのときだった。 ベンチの前の砂利道を、ランドセルを背負った男の子がトボトボと歩いてきた。靴は泥だらけで、肩は小さく落ちている。視線を足元に落としたまま、まるで世界に背を向けるようにして歩いていた。さと子はふと、その姿に目を留めた。「こんにちは」男の子はぴたりと足を止めた。驚いたように顔を上げると、おばあちゃんを見た。「……こんにちは」声は小さく、どこか元気がない。「学校帰りかい?」男の子は、こくりとうなずいた。「疲れた顔してるね。ちょっと、ここで休んでいかない?」さと子はにこやかにベンチの隣をぽんぽんと叩いた。男の子は少し迷うような様子を見せたが、ためらいがちにそっと腰を下ろした。ランドセルが、重そうに背中にのしかかっている。「名前、聞いてもいい?」「……はると」「はると君。いい名前ね。私はさと子っていうの。よろしく」
序章 遠い北の山奥に、百年の眠りについた姫がいるという噂があった。 姫を眠らせているのは、山頂の古城に住む一匹の竜。誰もが「恐ろしい怪物が姫を人質にしている」と信じていた。 だが、村の古老だけはこう語った。「あの竜の唸り声を聞いたことがあるか。あれは怒りではない、夜通し泣いているような声だ」 若者トビアスは、村を救う英雄になりたい一心で、剣を携えて山を登った。 城の最奥、玉座の間で、彼はついに竜と対峙する。竜は炎のような赤い瞳で若者を見つめたが、その瞳の奥には、怒りよりも深い何かが揺れていた。竜は低い声でこう言った。「お前もまた、剣を持ってきたのか」 その声には、うんざりしたような、それでいてどこか期待するような響きがあった──まるで、これまで訪れた誰もが同じ選択をしてきたことを、竜自身が一番よく知っているかのように。ここでトビアスの選択が、物語を三つの道に分ける。選択A:剣を抜く「英雄の道」 トビアスは迷わず剣を構えた。竜はそれを見て、なぜか安堵したように目を細め、それから抗うように炎を吐いた。 激しい戦いの末、若者は竜の急所を突き、竜は崩れ落ちる。「……ようやく、終わるのか」 竜はそう呟き、静かに息絶えた。その声には憎しみも恨みもなく、長い務めから解き放たれるような静けさだけがあった。同時に、玉座の間に光が満ち、姫がゆっくりと目を開ける。 村に戻ったトビアスは英雄として讃えられ、姫と結ばれた。だが彼は時折、竜の最期の声を思い出す。あれは敗者の声ではなかった──まるで誰かに終わらせてもらうのを、長い間待っていたかのような。祝宴の夜も、彼の心には小さな棘が残り続けた。〈英雄の勝利、しかし晴れきらない心〉選択B:対話を選ぶ「和解の道」トビアスは剣を鞘に収め、静かに問いかけた。 「なぜ姫を眠らせている?」竜は驚いたように長い首をかしげ、やがて語り始めた。 かつて竜は人間の魔法使いだった。姫の一族に裏切られ、呪いによって竜の姿に変えられてしまったのだ。姫を眠らせたのは復讐ではなく、姫の一族の魔法が解ける唯一の方法──姫が心から誰かを想うことでしか、自分にかけられた呪いも解けないと知ったからだった。「私はただ、誰かがここまで来て、話を聞いてくれるのを待っていた」 トビアスは竜のそばに座り、夜通し語り合った。翌朝、姫は自然に目を覚ました。